このブログに「中原中也」で検索して来る人が多いので、久しぶりに「中原中也」のことを書いてみます。
娘が、私に誕生日のプレゼントにくれた「中原中也」特集の雑誌があるんです。今日は天気の悪い休日だったので、少し読んでみました。
中原中也って言うと少年時代の写真が多いですね。
かなりの美少年だったようです。
そして中也と言うと「失恋した詩人」のイメージを持つ人が多いので、今日はその辺を少し書きます。
中也は山口中学校(現山口高校)の3年生の時落第をして、京都の立命館中学校の試験を受けて3年生に編入されます。
中也「ひと月読んだら分かる教科書を中学校と言うところは、1年もかかって教える。そんな馬鹿馬鹿しい勉強はもうせん。」
天才はかっこいいですねぇ。
そして中也は京都にでます。
ゆきてかえらぬ ー京都ー
僕は此の世の果てにいた。陽は温暖に降り酒ぎ(そそぎ)、
風は花々揺すっていた。
木橋の、埃りは終日、沈黙し、ポストは終日赤々と。
風車を付けた乳母車、いつも街上に停まっていた。
ここで運命的な出会いがあります。
劇団表現座の女優の卵の長谷川泰子との出会いです。
数ヶ月後、2人は同棲を始めます。
中也17歳、泰子20歳だったそうです。(ませてますねぇ。)
このころ知り合った画家の富永太郎とも親しくつきあいますが、結核だった太郎は東
京に帰ります。
それを追うように、中也は泰子とともに上京します。(親は心配だったでしょうね。)
ここでも、またまた運命的な出会いがあります。
文芸評論家、小林秀雄との出会いです。
泰子は「ゆきてかえらぬ中原中也との愛」の中で、書いているそうです。
「その人は雨の中から現れたような感じでした。雨に濡れたその人は新鮮に思えました。」
小林は中也に対して初対面の時から、「魅力と嫌悪を同時に感じた。」と記しているそうです。それに対して中也は自分のことを「早熟の不潔さなのだ。」と答えます。
やがて小林と泰子は中也に隠れて会うようになります。
小林は中也を評して「あらゆる物に対して、それが如何に美であるかといふ事よりも。如何に醜であるか。如何に真であるかといふ事より、嘘であるかといふ事の方が、先ず常に問題になる頭だ。」と言ってたそうです。
そして、とうとう小林は中也に絶交を言い渡し、泰子は小林の元に去ります。
この頃、画家の富永太郎は結核で息を引き取ります。
頻繁に交流していた友人との絶縁、畏敬していた友人の死、京都時代から傍らにいた女性との離別..........。
「大東京の中で、一人にされ、中也は詩人として鍛え上げられる。」だったそうです。
中也18歳。泰子21歳、小林23歳だったそうです。(う~ん。)
中也は「我が生活」の中で、こう記しています。
「私はほんとうに馬鹿だったのかもしれない。私の女を私から略奪した男のところへ、女が行くといふ日~女の荷物の片づけを手助けしてやり~」
(天才のやることはよくわかりません。)
で、長谷川泰子がどう言う女性だったか知りたいでしょう。

「小林とも離別後、松竹キネマ蒲田に入社、映画「山彦」に出演、芸名・陸礼子」とあります。そして、演出家との間に長男が出生、後に商社社長と結婚するが別居して世界救世教に入信とあります。70歳の時に「ゆきてかえらぬ 中原中也との愛」を著して88歳で老人ホームにて死去とありました。
う~ん。波瀾万丈の人生ですな。同じ一生でも、悔いのないように生きるってのか.......。
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