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2009年3月29日 (日)

中原中也(詩人としての出発)

  故郷からも、女性からも、友人からも見捨てられ、たった一人になった中也は、独自の喪失感をうたい、詩人として歩き出します。

     朝の歌

  天井に 朱きいろいろで
     戸の隙を 漏れ入る光
  鄙びたる  軍楽の憶ひ
     手になす なにごともなし。

  小鳥らの  うたはきこえず
     空は今日 はなだ色らし、
  倦んじてし 人のこころを
     諫めする なにものもなし

  樹脂の香に 朝は悩まし
     うしなひし さまざまのゆめ、
  森竝は 風になるかな

  ひろごりて たひらかの空、
     どてづたひ きえてゆくかな
  うつくしき  さまざまの夢 

 
「はなだ色」って、薄い藍色で、女性の着物の半襟にも使われるそうです。 
 

 「倦(う)んじてし 人のこころを 諫(いさ)めする なにものもなし」と言うのは

   
「朝遅くまで寝床に横たわっている倦怠感に満ちた主人公を、もはや叱ってくれる人も
    い ない。」と言う意味だそうです。

   
「うしなひし さまざまのゆめ」なんかも泰子と別れた心情でしょうか。
  
  中也はこの詩の推敲に数ヶ月間費やしたそうです。
Tyuuya_bousi_0002

 

 中原中也を伝説にした黒いソフト帽です。



    

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2009年3月28日 (土)

送別の歌2

 中原中也シリーズをちょっと中断して、「送別の歌2」を書かせて下さい。
 夕べ、送別会があったんですけど、居酒屋っぽい場所なんで、カラオケなんかありません。
 で、最後の方で私、アカペラで歌った歌が意外とウケたので、紹介します。

     惜別の歌
 
  1.遠き別れに 耐えかねて
     この高殿に 登るかな  
       悲しむなかれ 我が友よ
         旅の衣を ととのえよ
 
  2.別れと言えば 昔より 
      この人の世の 常なるを
        流るる水を 眺むれば
          夢はずかしき 涙かな
 
   3.君がさやけき 目の色も
       君くれないの くちびるも
         君がみどりの 黒髪も
          またいつか見ん この別れ

 
この歌の作詞者は島崎藤村なんですけど、作曲者はと言うと......。
 
「太平洋戦争真っ只中の1944年、作曲者は中央大学から学徒動員令で造兵廠にいました。戦地に赴く学友を送る際に友情と離別の思いを込めて作ったといわれてます。」だそうです。

 私、この歌も大好きです。高校生の頃、よく歌ったんですけど、久しく忘れていました。

 
で、これ誰が歌ってると思います。意外な歌手だと思います。
   
 「小林旭」なんです。

 
でも、残念ながら小林旭の画像のものはありませんでした。

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2009年3月26日 (木)

送別の歌

  最近は送別会シーズンですけど、送別の歌と言うとちょっとした想い出があるんです。

  大学の卒業コンパで、ある教授が歌ってくれた歌が 

  「忘れな草をあなたに」

 
と言う歌だったんです。随分年配の人で、とてもそんな歌を歌いそうじゃなかったので

、凄く新鮮で、私にとっては忘れられない歌となりました。

   「忘れな草をあなたに」

 別れても 別れても 心の奥に
 いつまでも いつまでも
 憶えておいて ほしいから
 幸せ祈る 言葉にかえて
 忘れな草を あなたに あなたに

 いつの世も いつの世も 別れる人と
 会う人の 会う人の
 定めは常に あるものを
 ただ泣きぬれて 浜辺に摘んだ
 忘れな草を あなたに あなたに

 喜びの 喜びの 涙にくれて
 抱(いだ)き合う 抱き合う
 その日がいつか 来るように
 二人の愛の 思い出そえて
 忘れな草を あなたに あなたに

 これ私が好きな倍賞千恵子が歌っているので、動画をアップしてみます。

 
でも、ダウンロードに1分位かかるかもしれません。  

 
是非、皆さんも歌ってみて下さい。

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2009年3月23日 (月)

中原中也(ダダイズム時代)

  「ダダイスト新吉の詩」に影響された中也は「ノート1924」にダダイズム的作品を多く残します。

   『春の日の怒』

   田の中にテニスコートがありますかい?
      春風です
      よろこびやがれ凡俗!
      名詞の換言で日が暮れよう

      アスフアルトの上は凡人がゆく
      顔  
      石版刷りのポスターに
      木履の音は這い込まう

 
「ダダイスト新吉の詩」の本の序文を佐藤春夫が書いていて、その中で佐藤は「平俗的幸福のなまぬくい生活に対する徹底的の反抗と挑戦である。」と述べている。
 中也は自らの「なまぬくい生活」を捨てようと決心する。

   この頃は「大正デモクラシー」の時代だったのかな?既成概念の打破が流行した時代かも。 

    ダダ音楽の歌詞

  ウハキはハミガキ
  ウハバミはウロコ
  太陽が落ちて
  太陽の世界が始まった

  テッポーは戸袋
  ヒョータンはキンチャク
  太陽が上って
  夜の世界が始まった

  オハグロは妖怪
  下痢はトブクロ
  レイメイト日暮れが直径を描いて

  ダダの世界が始まった

  ダダ、ってんだよ
  木馬 ってんだ
  原始人のドモリ、でもよい

  
なんか、僕らの青春時代に流行った前衛詩、あるいは前衛的なフランス映画みたいですね。
Ritumeikann_3   

 立命館中学3年生の時の集合写真です。

 前列左端が中也です。









Ritumeikann_2

  上の写真を拡大したものです。
  帽子が好きな中也なのに、帽子をかぶってないのは中也だけです。

 ダダイズムの影響でしょうか。

 写真の裏に記されていたそうです。

 
記念にと思う心よあるものか!思い出は淋しきに 思い出は悲しきに 1924,2,1

 う~ん、分かる気するね。

 「ノート1294」の時代に一致するので、この子が上の詩を書いたんですね。
  
  今夜は9時まで会議があったので、もう限界です。この続きは、また明日。







 
 

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2009年3月17日 (火)

中原中也(中学生時代)

 学業より文学に傾倒していく中也は、小学6年生のとき雑誌や新聞に短歌を投稿し始めます。
 このころ「婦人画報」に次選として掲載されました。

 筆とりて手習いさせし我が母は今は我より拙しと云う

 
文学をやろうとするとする中也に両親は反対しますが、中学生だった中也は山口中学の上級生と防長新聞の若手記者との共著で、合同歌集「末黒野」を刊行し、中也は28首を収載します。

 
ユラユラと曇れる空を指してゆく淡き煙よどこまでゆくか

 白き空へ黒き煙のぼりゆけば秋のその日もなおも淋しかり 

 
この歌の評論です。
 
  
「まず視覚的にみて、ふらつきがない。均整がとれているのである。活字の行間から、モノクロームな風景が煙のようにユラユラと立ち上ってゆくではないか。聴覚的には、さらなる完成度がみられる。」
 
  
(なるほどね。分かったような。分からないような。)
Photo

  中学生の頃、弟たちと撮った写真です。

  14歳の少年にしては、大人びていますね。

  










     子供心
  菓子くれと母のたもとにせがみつくその子供心にもなりてみたけれ

     春の日
  心にもあらざることを人にいひ偽りて笑う友を哀れむ日

     去年今頃の歌

  一段と高きとこより凡人の愛みて嗤う(わらう)我が悪魔心 

  中也の「早熟」と言う表現がぴったりです。
  学校の勉強や学友が幼稚に見えてしかたなかったかもしれませんね。
  
    山口中学3年生を落第した中也は、立命中学で2度目の3年生をします。
  この頃は、山口時代に書いていた短歌には見向きもしなくなり、小説を書き出します。
  でも、ある夜下宿近くを散歩していて、偶然古本屋で見つけた一冊の本に深く影響を受けます。
Dadaisuto_2

   中也は作者の高橋新吉と1927年に新吉を訪ね10年くらい交流したようです。













  ダダイズムとは1916年にスイスのチューリッヒで前衛芸術家達が幼児言葉の「dada」(仏語で馬と言う意味)を辞書で発見し、自分たちの言語破壊の表現運動の名称としたものだそうです。

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2009年3月16日 (月)

中原中也(少年期)

  中也のことを、もう少し書きたくなったので、つきあって下さい。

  中也は、「生ひ立ちの歌」と言う詩でこんなことを書いています。

      生ひ立ちの歌

 
   幼年時
  私の上に降る雪は  真綿のようでありました

    少年期
  私の上に降る雪は  霙(みぞれ)のやうでありました

    17ー19
  私の上に降る雪は  霰(あられ)のやうに散りました

    20ー22
  私の上に降る雪は  雹(ひょう)であるかと思われた

    23
  私の上に降る雪は  ひどい吹雪と見えました

    24
  私の上に降る雪は  いとしめやかになりました.......。

  
中原中也は、明治40年4月29日。陸軍軍医であった柏村謙助、母フク(中原家養女)の長男として生まれます。
  
  「中原家にとっては数十年ぶりの嗣子の誕生でした。周囲は喜びに沸き、盛大な誕生祝いは3日に及んだ」そうです。(なんか分かる気するな~。)
Tyuuya1_0003

  1歳4ヶ月の中也だそうです。

  生誕地は「山口市湯田温泉」です。

  今、記念館が建っています。










  中也は、生まれて半年後に旅順に渡り、山口に帰っって半年後、2歳になる少し前に広島に行きます。そして5歳のとき、父謙助の転任によって、金沢に引っ越します。

  中也は、広島・金沢時代に3人の弟の兄になります亜郎、恰三、思郎の3人です。

  そして7歳の時、父謙助の朝鮮転任を期に、母子は山口の生家に戻り、中也は小学校に入学します。
Tyuuya2_0006

  

「中也は親の期待に応えようとなんでもよくやり、よくできる、優等生の中也。そして早熟だった。」

 「神童と呼ばれていた。」

「中也は長兄としての期待も大きく、ひとに厳しすぎると指摘されるほどにしつけをしていた。」




  


    小学校4年生の時の図画です。
 
Tyuuyae1

  右の方は、画像が悪くてごめんなさい。

  母フク
「あの子は絵を描いても、ものをはっても綺麗なものでした。」





   
   
なんでもよくできたけど、特に習字が良くできたそうです。
Syuuji

 尋常小学校3年生の時の習字です。

 びっくりでしょう。絶対、私より上手いよ。












  
   このときも、運命的な出会いがあります。教生・後藤信一です。後藤は中也を可愛がり、授業が終わるといつも寄宿舎に連れて帰ったそうです。

  中也は「詩的履歴書」の中で後藤との出会いを、「詩の好きな教生に出会う、恩師なり」と位置づけている。

  後藤も「中也さんをあんなに文学好きにしたのは、僕にも罪がある。」と言ってたそうです。

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2009年3月14日 (土)

中原中也のこと

  このブログに「中原中也」で検索して来る人が多いので、久しぶりに「中原中也」のことを書いてみます。
 

 娘が、私に誕生日のプレゼントにくれた「中原中也」特集の雑誌があるんです。今日は天気の悪い休日だったので、少し読んでみました。
Naka3

  中原中也って言うと少年時代の写真が多いですね。

  かなりの美少年だったようです。

  そして中也と言うと「失恋した詩人」のイメージを持つ人が多いので、今日はその辺を少し書きます。









  中也は山口中学校(現山口高校)の3年生の時落第をして、京都の立命館中学校の試験を受けて3年生に編入されます。
Tyuuya1_0004

  

中也「ひと月読んだら分かる教科書を中学校と言うところは、1年もかかって教える。そんな馬鹿馬鹿しい勉強はもうせん。」


  
天才はかっこいいですねぇ。








  そして中也は京都にでます。


    ゆきてかえらぬ    ー京都ー

  僕は此の世の果てにいた。陽は温暖に降り酒ぎ(そそぎ)、
  風は花々揺すっていた。

  木橋の、埃りは終日、沈黙し、ポストは終日赤々と。
  風車を付けた乳母車、いつも街上に停まっていた。

  
ここで運命的な出会いがあります。
  劇団表現座の女優の卵の長谷川泰子との出会いです。

  数ヶ月後、2人は同棲を始めます。
  中也17歳、泰子20歳だったそうです。(ませてますねぇ。)

  このころ知り合った画家の富永太郎とも親しくつきあいますが、結核だった太郎は東
  京に帰ります。

  それを追うように、中也は泰子とともに上京します。(親は心配だったでしょうね。)

  ここでも、またまた運命的な出会いがあります。
  文芸評論家、小林秀雄との出会いです。
Kobayasi_0007

 泰子は「ゆきてかえらぬ中原中也との愛」の中で、書いているそうです。

「その人は雨の中から現れたような感じでした。雨に濡れたその人は新鮮に思えました。」 







  小林は中也に対して初対面の時から、「魅力と嫌悪を同時に感じた。」と記しているそうです。それに対して中也は自分のことを「早熟の不潔さなのだ。」と答えます。

  やがて小林と泰子は中也に隠れて会うようになります。

  小林は中也を評して「あらゆる物に対して、それが如何に美であるかといふ事よりも。如何に醜であるか。如何に真であるかといふ事より、嘘であるかといふ事の方が、先ず常に問題になる頭だ。」と言ってたそうです。

  そして、とうとう小林は中也に絶交を言い渡し、泰子は小林の元に去ります。
  この頃、画家の富永太郎は結核で息を引き取ります。

 頻繁に交流していた友人との絶縁、畏敬していた友人の死、京都時代から傍らにいた女性との離別..........。

 「大東京の中で、一人にされ、中也は詩人として鍛え上げられる。」だったそうです。

 中也18歳。泰子21歳、小林23歳だったそうです。(う~ん。)

 中也は「我が生活」の中で、こう記しています。
 

「私はほんとうに馬鹿だったのかもしれない。私の女を私から略奪した男のところへ、女が行くといふ日~女の荷物の片づけを手助けしてやり~」
 
(天才のやることはよくわかりません。)

 で、長谷川泰子がどう言う女性だったか知りたいでしょう。
 

Yasuko2  「小林とも離別後、松竹キネマ蒲田に入社、映画「山彦」に出演、芸名・陸礼子」とあります。そして、演出家との間に長男が出生、後に商社社長と結婚するが別居して世界救世教に入信とあります。70歳の時に「ゆきてかえらぬ 中原中也との愛」を著して88歳で老人ホームにて死去とありました。      う~ん。波瀾万丈の人生ですな。同じ一生でも、悔いのないように生きるってのか.......。

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2009年3月12日 (木)

悪酔いしない方法はないかなぁ

  最近、酒飲むと悪酔いする事が多いんです。

  大体、翌日、覚えてないことがほとんど.......。

  だのに、つけだけはしっかり来ます。

  そこで、インターネットで検索してみると......。

  「サフラン」が利くそうです。

  「サフラン」? なんじゃ、それ?

  なんでも、香辛料だそうで、スーパーの「調味料コーナー」にあるようです。

   「シナモン」とか「ガーリック」とかと一緒においてあるそうです。

  で、行ってみました。

  ほら、小さい瓶が何十本と並んでるコーナーがあるじゃないですか。

  すると、ありました!
 Photo

  

  う~ん。確かに「サフラン」って書いてあります。









  中身は、下の写真です。 

No2

  なんか、海草とも、木の根っことも分からないのが入っています。 

 これ、ご飯と一緒に炊き込むんだって。

 あんまり、おいしそうな臭いはしてないけどね。




  これを5,6本、水と一緒に飲むんだそうです。

  よし! 試してみるぞ! 結果はまた、レポートします! おやすみ!
 

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2009年3月11日 (水)

妻木晩田遺跡について

  吉野ヶ里遺跡についておととい書いたけど、山陰地方にも妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)があります。
2 

 これを見ると「国内最大級のムラの跡」と書いてあります。  

 えっ?じゃ、吉野ヶ里は?

 あれは、ムラじゃなくって、クニとか?






Syasinn2

 ここは、ハイキングコースですね。












Syainn3
  でも、ここはここで、違った楽しさがあります。











Syasinn4

  縦穴式住居の作り方です。












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  眺めは、素晴らしいです。日本海が一望できて。弥生人は、こんなところで、魚をとったり畑作をして暮らしていたんでしょうか。










Syasinn9

  住居も、吉野ヶ里より素朴な感じがします。

  いかにも手作りって感じです。










Ysainn7
  でも、こんなところで毎日、なにして暮らしていたんでしょうね。

  テレビも本もないところで。








Syasinn8_2

  これ排水溝でしょうか。雨水をためるんでしょうか。









  他の遺跡にも行って見よっかな。

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2009年3月10日 (火)

やっぱり神はいるかも。

  先週、良くないことばかり起こるので、「神はいるのかなぁ」って思い始めましたけど、またまたアクシデントがあって、「やっぱりいるのかなぁ」 って思い、元気がでません。 

 土曜日、壁の角にごっつんこ、前歯の先が少し欠けたんです。
 鏡で見ると、普通に話している分には、分からないけど、笑ったとき。
「格好悪い~。」 

 昨日、歯医者に行ったら、ちょいちょいと詰めてくれて、全く分からないようになったんですけど....。

 歯医者さんが、「神経が、なんちゃら、かんちゃら。」、「ほら亀裂が入っているでしょ。」
 
 
マスクしてるから、よく聞こえないんですよね。

 「後で、なんちゃら、かんちゃら。」、「でも、大丈夫○○から穴をあけてなんちゃら、かんちゃら

 「保険で直りますから、当分、堅い物と熱い物は食べないで、様子を見ましょう!」

 
なんか、よく分からないけど、堅い物とか食べると、歯がぽっきり折れたりして、そうな
 ると、なんか痛そうな治療が必要みたいです。

 で、すっかり気が滅入ってしまい。食べ物も喉を通らないし、酒なんかとんでもないって感じです。

 今日も「飲み会」があったんですけど、ウーロン茶で帰りました。

 で、インターネットで調べてみると、「歯を打撲すると、歯の中の神経が壊死(壊れる)してしまうことがあります。そうなると変色してくるので、歯の先端から穴を開けて神経を取り、歯の裏側から、歯の中をホワイトクリーニングする。」らしいんです。

 で、それが数日、数ヶ月、時には数年後のことがあるんだそうです。

 そっか~。それで、「とりあえず一週間、様子を見ましょう。」ってことだったのか~。
 堅い物は、衝撃があるし、熱い物。冷たい物は歯の神経を刺激するのか~。

 で、先生に
「酒はどうでしょう?」って聞こうと思ったけど、怖くて聞けませんでした。

 でも、少しぐらいならいいか~。

 
これから少し気をつけなきゃね。

 悪いことばかりじゃなく、良いことも色々ありました。ホント。

 あんまり調子に乗らず、「慎重に、謙虚に、一生懸命に、ゆったりと、素直に行きましょう。うん。」

 
それが、神様におすがりするってことでしょう。
 
 


  

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2009年3月 9日 (月)

吉野ヶ里遺跡でのこと

  パソコンの中を、探していたら、5年位前に行った、佐賀県の「吉野ヶ里遺跡」の写真が見つかりました。佐賀県の鳥栖市にあります。高速のインターを降りて5分位です。

  中は、凄く広いです。
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「国営吉野ヶ里歴史公園」って言うんだそうです。

ですから入場料も安くて、400円でした。

ゆっくり見ると一日位かかりそうでした。










Yosino1

  環壕集落になっていてこうした縦穴住居がいっぱいあります。










  中に柵で囲まれた部分がありました。
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   柵の中はメインとなる大きな建物を、小さな高床式の建物が取り囲んでいました。


  そして、祭礼の模様や会議の模様が再現されていました。


  ここは、もう「城」って感じでした。

  やっぱ、ここが「卑弥呼の邪馬台国」かな~。 

     



  Yosino2

  

  真冬の12月でしたけど、この日は天気も良く気持ちの良い日でした。








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  向こうに見える柵の中が、さっき言った「城郭」です。










Yosino4
  
  「吉野ヶ里」、古代人の生活に夢馳せる場所でした。


  ここも、お勧めの場所です。









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2009年3月 7日 (土)

高梁のこと

  もう少し、高梁のことを書きます。
  そう言えば、最初にここに来たのは、もう20年以上も前のことだけど死んだ父が、「高梁」に行きたいと言うので、母と3人で、ある日曜日車で行きました。

  当時は、まだ高速もないし、日帰りでは結構遠く感じました。
  ここ、我々出雲人にとって、特に思い入れが強いのは尼子家の家臣「山中鹿之助」の終焉の地なんです。
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 ほんと、静かな城下町です。「フーテンの寅さん」では、博の故郷で、奥さんを亡くした、志村喬ふんする、お父さんの所に逗留すると言う設定です。









  多分、上の通りが博の生家と言う設定だったと思います。
  ここ、武家屋敷の通りです。
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  武家屋敷です。「静寂と清潔感」が良かったですねぇ。










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   非常に丁寧に管理されてるって感じでした。










  この映画でお寺が登場するんですけど、下の写真です。
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  確か、みんなで墓参りするシーンだったと思います。










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  ここ、城みたいでしょう。江戸初期は、寺もこう言う作りにしてるところが結構あります。



  いざ、戦になったときに寺も砦として使う意図があったのかもしれません。




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  ここの庭園もきれいだったですよ。










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 楼門の屋根にも「鯱」がのっています。

  まだ、桜の花の少し残る、春の日のドライブでした。

  是非、行ってみることをお勧めします。

 

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2009年3月 5日 (木)

遊びに行きたいなぁ。

 遊びに行きたいですねぇ。どこでも良いから。日帰りでも良い。
 でも、最近土日が忙しいし、年度末で仕事も忙しいので、休む訳にもいきません。
 
  パソコンの写真ファイルを探していたら、確か5年くらい前に行った岡山県の高梁市の写真がみっかたので、アップしてみます。
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  ここ、映画「寅さん」のロケ地としても有名です。

  ホント、静かな城下町です。高速の高梁インターを降りてすぐです。






  
 で、ここ「備中松山城」があるんですけど、これがとんでもない山の中にあるんです。
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  でも。私が見た城の中では、美しさで、かなり上位にあると思います。

  もちろん全国で12しかない「現存の城」の一つです。






  
  この日はちょうど4月の、もの凄く天気の良い日だったので写真もきれいに撮れました。
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 そんなに大きな城ではないのですが、古い石垣がそのまま、残っていて見応えがあります。
 観光客が少ないからでしょうか。








  
 私のお勧めの城の一つです。
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 築城美って言うんでしょうか。自然に調和した美しさが、ホット安心するような感動を覚えます。
  (ちょっとキザかな?)









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  この天守閣も大きくはないですけど、実戦向きの、力強い美しさがあります。









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 どうです。この美しさ。でも、実際に見るともっと良いです。









  
 今夜はもうだめ!帰るのが遅かったので、眠たい!明日、もう少し続きを書くね。

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神っているのかなぁ

 私、神ってあんまり信じないんです。
 町で「あなたは~、神を~、信じますか~」って聞かれると(最近、あんまり見かけないけど)
 「いいえ、信じません。」って、いつも答えてたんです。

 でも、「やっぱいるのかなぁ」って思えるような出来事があったんです。

 この1月の間に、2度事故ったんです。それも2回とも駐車場で。1度は自分が人の車に当てたんですど、2度目は当てられたんです。

 これは、「罰があたったのかなぁ。」って、つい弱気になりました。

 妻は
「厄年だからよ」って言います。

 そう言えば、正月に行った清水寺の一覧表では、寅年は厄年になってました。

 
そんな馬鹿な~。

 
私の過去の日記の中に、神様に関して書いた箇所がありました。

 6年くらい前の日記に、
 
  
「神とか、仏はない。あるのは冷徹な事実だけだ。その事実に対して、いかに現実
   的な思考で、着実な行動ができるかだ。逃げずに戦うことだ。神仏があるとすれ
  ばそうした行動ができる自分自身の中にあるのでは。」

  きっざ~。

  
日記って、後から読むと恥ずかしくなるけど、当時は確かにこんな心境でした。

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2009年3月 3日 (火)

北一輝(続きの続き)

  で、この北一輝ですけど。私が発見した、佐渡の両津港近くの生家の側の「湊の若宮八幡宮境内」に銅像があるらしいんです。
Photo

 そうか~。残念なことしたなぁ。

 でも、この人初回のブログで中国服と大陸との関係を誤って書いてたけど、「1911年辛亥革命には黒竜会の一員として渡中,宋教仁の活動を支援した。」ってあります。

 中国での革命に関わっていた訳ですね。
 で、彼は帰国してから「日本改造法案大綱」をまとめるわけです。





 彼の人物像を松本清張は「北一輝は、外見的には社会主義者として出発し国家主義者として終わった。」としてます。
 右翼と左翼の両方の考え方を持っていたと言うわけです。案外彼は国際的に広い視野を持っていたのでは。

 つまり、彼は、国家を国民をどうしようと思っていたのか。
 彼は、強権による改革の後には、社会民主主義的社会体制(アメリカ的社会)を想定していたと言われています。

 ところで日本の革命は、明治維新にしろ226事件にしろ、天皇をいかに味方に付けるかにあるように思います。遠く戦国時代にしてもしかりです。

 北一輝はこの点をどう考えていたか。
 ブログの最初に書いていたように。

 処刑場に向かう北一輝に一人の兵士が声をかけます。

 「あなたは最後に天皇陛下万歳と言って死ぬのか?」
 「俺は、死ぬときに冗談は言わんよ。」

 
彼は国粋主義者だと言われながら、天皇制については非常にクールに考えていたのでは。
 また、一方で、彼の影響による軍の青年将校によるパワーを利用して財界から、金をせしめていたとの「書き込み」がありました。

 私の死んだ友人は超読書家でしたが、彼に深い興味を持ったのは、「北一輝」の持つ、こうした不可解な人間像ではなかったのか。

 最後に、私が聞いたある歴史学者の講演でこんなことを言っていました。

 
「日本人が好きな歴史上の人物の一位は織田信長、二位は坂本龍馬、三位は諸葛孔明です。三人とも謎が多い人物です。日本人はこうしたある意味で分かりにくい屈折した人物を好む傾向があります。」


 で、結局こんなことを書いている内に松本清張の「北一輝論」が読みたくなってインターネットで買うことに決めました。呼んだらまた、書きます。

   

 

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2009年3月 2日 (月)

北一輝(続き)

  退屈かもしれませんが、「北一輝」のことをもう少し、書きます。

  
  映画「戒厳令」での大まかな内容です。

 
 北一輝は著書「日本改造法案大綱」で、三年間、憲法を停止し、両院を解散し、戒厳令を敷くとしていました。軍事クーデターによる戒厳令政府でしか、日本の改革はできないと言うのが、彼の考え方でした。

 
 当時は、議会政治が腐敗し、貧農や労働者を救える状況になかった。これは右翼にも左翼にも、そうした力がなかったのです。

 
  そこで、軍部の青年将校達は北一輝の「日本改造法案大綱」に共感し、クーデターによる戒厳令政府によって天皇陛下に直接訴えようとした。
 

  この辺のところは、映画「動乱」を見ることをお勧めします。
 高倉健のニヒルな青年将校が実に良い。

 
  北一輝は自分の思想により
二二六事件が不気味に進行していくことに、自己陶酔を覚えながらも怯えて行きます。

 
 そして二二六事件の軍隊を反乱軍とされたとき、北一輝は「自分の主張に勝手におぼれた連中の起こした事件だ。」と主張するが、逮捕されて処刑されます。

 
 こう書いていくと、つまんないおじさんですね。

 
  
要するに、自分で手を汚さずに、青年を扇動して、成功すれば英雄で崇めたてられるけど、失敗したから責任逃れに走っているような。

 
 でも、面白くなったから、明日はもう少しつきあって下さい。ごめんなさい。



                               

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